抑制止めど





 喫茶店は、そろそろ人が多くなって来る頃合だった。
 いつもなら、とりとめもない議論や抽象的やりとりをさんざん繰り返し
 少なからず空虚な気分になった私たちが席を立っている時間。

 入れ替わり立ち替わる客たちの活気が低く伝わってくる空気の中、
 そういえば、と ふと思い出したように 夜神月は話し始めた。

「流河は何で 僕の事をそんなに丁寧に呼ぶんだ?」

 彼の小さく整った顔を眺め、私は 少しばかり途方に暮れた。

「丁寧とは。」
「『夜神くん』。」

「丁寧ですか。」
「…友達には『月』って呼び捨てにされることが多かったからね。
 苗字って、よそよそしい感じがするというか…」

「特によそよそしくしているわけではありません。
 他にもくん付けで呼ぶ人が居るでしょう、あなたのファンの女性たちとか。」

 彼はやんわりと笑って言った。

「彼女達と僕との距離は、流河とほど 近くないだろう?
 流河は四六時中僕の隣に居るくせに、僕の下の名前すら呼ばないじゃないか。」

「私にとっては夜神くん、が 一番呼びやすくて簡単なのですが」
「本当に?」
「と 申しますと。」
「流河は父と一緒に仕事してるんだろう?父のことは何て呼んでるんだ?」
「夜神さん、です」
「それ、ややこしいだろう?」
 彼は控えめに笑った。
 それはあくまでも私自身の間違いを赦す、と言ったニュアンスで。
 私は尋ねた。

「名前をんでほしいのですか?」
 
 彼は肩をすくめ、やれやれと言うように笑った。
「面白いこと言うね流河。」

 なぜそんな事を思う必要がある?
 なぜ君に名前を呼ばれたいと思う理由がある?
 これは純然たる疑問、ふと思い出したから問うてみただけで。

 そうとでも、言うように。
 
 なので私は 思わず言ってしまった。

「私は 私に関わる人については、なるべく下の名前を呼ばないようにしているのです」

「何で」
「簡単に言えば」

 簡単   え ば… ・  ・

 何故か私には 次の言葉を言うのは少しばかりためらわれた。
 でも夜神月は魅きこまれるように綺麗なその瞳で 続きを促すので。
 仕方なく、私は言った。

「…食用牛に名前を付けないのと同じ理由ですよ。感情移入してしまうでしょう?」

 ひゆ、と軽く息を呑む音がした。
 刹那、なんとも名づけようの無い思いが込み上げ 私は指を噛む。

 一瞬後、落ち着いた声が返ってきた。
「それはつまり、君にとって僕は 感情移入するに足りない人間てこと?」

「あなたという人間に対する満足不満足の問題ではなく、ポリシーの問題です。
 執着することは危険なんです。正確な判断ができなくなる。」

 そして私たちは、長いこと無言だった。
 もはや修復不可能の現実に、私は目の前の冷めた紅茶を無意味に掻き混ぜてみたりするけれど
 何も変わらない。変わるわけもない。

 やがて彼は鞄を持って立ち上がり、小銭をぱちりと机の上に置いた。
 そうして

 「じゃ また明日」

 と 出口に向かって歩き出す彼に向かい、私は膝を抱えたまま 曖昧にうなずいた。
 相変わらず、少しばかり途方に暮れたまま。

「あ、そうだ。」

 と 彼はまた、ふと思い出したようにこちらを振り返った。

「さっきの話だけど」

 彼はその長いまつげを伏せた。まるで祈る人のように。
 それでいてその祈りは叶わぬと知っている人のように どこか諦めにも似た微笑を浮かべて。

「…んでほしかったんだ。 」
 名前。
 あえかな囁きのように 一瞬 唇を震わすと、彼は足早にそこを去った。






 私はと言うと、今度は本格的に途方に暮れていた。

              (本当は私もずっとずっと「彼の名を呼びたい」と思っていたのだと。)
   









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  あなたを、呼び生けたい。





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